花巻東高・大谷翔平投手の日本ハム入りが決まった。9日の入団表明会見では、明言していたメジャー挑戦を翻意したことで、その表情は曇ったままだった。折れそうになる18歳の気持ちを奮い立たせるかのように、同席した栗山英樹監督は「投手と打者両方で活躍できる選手に育てたい」と、二刀流挑戦をバックアップする考えを口にした。

▽ジャンボ仲根を思い出す

160キロ右腕の大谷投手は、打者としても通算56本塁打と非凡なものを持っている。大谷投手自身は投手としてスタートしたいようだが、打者にも魅力を感じている。近年の野球ではまずお目にかからなくなった投手と打者の両立、いわば「20勝20本塁打」へ球団挙げてバックアップしようというのだ。

大谷投手の身長が193センチと聞いて、40年前の近鉄(現オリックス)担当記者時代の記憶がよみがえった。1972年のドラフト会議1位で入団してきたのが、その春のセンバツで優勝した日大桜丘高の仲根正広投手だった。「ジャンボ仲根」の愛称は193センチのでかい体からつけられたものだ。この右投げ左打ちの注目選手は入団発表で「20勝20本塁打が目標」と二刀流挑戦を言ってのけた。怖いもの知らずの仲根投手は翌春キャンプで、400勝投手の金田正一氏との対談でも物おじせずに、この数字を口にした。

4年間の投手生活で通算2勝、打者転向後は83年に14本塁打をマークしたが、通算36本塁打に終わり、88年の中日を最後に引退。7年後に40歳の若さで亡くなった。嫌みのない、やんちゃな性格もあり、その背番号「20」のユニホーム姿は記憶に残っている。

▽二刀流の元祖は鉄腕

日本プロ野球は戦後のしばらくまでは投手と打者を兼任する選手は多かった。中でも、「3連投目ぐらいが一番肩の調子がいい」と言ってのけた鉄腕、野口二郎氏(故人)は投げない日は打者として出場し、両方で成績を残した。42年には500イニング以上を投げ40勝を挙げるなど12シーズンで通算237勝。46年には31試合連続安打を記録するなど通算830安打した。二刀流といえば、この人が頭に浮かんだ。阪急(現オリックス)の投手コーチ時代に取材したが、温和な人柄で「この人が鉄腕?」と思ったものだ。

東京六大学の明大3年、岡大海選手は4番を打ちながら終盤にリリーフ登板する二刀流で、今春のリーグ戦で大活躍した。そして昨夏の甲子園大会で日大三高を優勝に導いた早大の1年生、吉永健太朗投手の打撃には目を見張るものがある。打者としても十分やっていける。ただ、二兎追う者一兎も得ずの例えもある。王貞治氏をはじめ甲子園の優勝投手がプロ入り後、打者に転向する例が多いことでも分かるように、厳しいプロの世界では、どこかで岐路に立たされる。

▽挑戦、大いに結構

分業が進んでいる現在のプロ野球で、打者と投手両方でプレーするのは至難の業だろう。大谷投手の二刀流について栗山監督は「漠然と頭の中にある」と話しており、登板日以外は守備の負担がない指名打者(DH)としての起用などを考えているのだろうか。ただ、こうした挑戦は面白いと思う。同監督は「誰も歩いたことのない道を歩いてほしい」とも言っている。

破天荒なことと切り捨てる訳にはいかない。25年ほどの前になるが、米国でプロフットボールのNFLと大リーグを股に掛け活躍したスーパーマンがいた。ボー・ジャクソン選手で、大リーグに打者として在籍した8年間のうち、NFLと4年重なっていた。シーズンがずれているからできるとはいえ、この2大スポーツでプレーできたところに、米国プロスポーツの懐の深さを感じる。

▽まだまだ続く大谷余波

さて、大谷投手の入団表明を受けて、プロ野球界にかみついたのが楽天の星野仙一監督だった。同投手と日本ハムに非がないという前提で「(大谷投手が)米国行きを表明したから、地元のうちは指名しなかった。これではドラフトの意味がなくなる。コミッショナーは問題にすべき」と、最下位球団から指名する完全ウエーバー制の導入を訴えた。新人選手の契約金高騰を防ぐことや、戦力の均等化を目的としたドラフト制度は、球団のエゴによる逆指名などでゆがめられてきた。原点に戻って議論するいい機会だと思う。まだまだ“大谷余波"は続く。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。

ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆