西武球団の前身はプロ野球史上、巨人と並ぶ最強チームといわれた西鉄ライオンズである。日本シリーズで3年連続で巨人を倒して「福岡に西鉄あり」と日本中を沸かせたのは1958年(昭和33年)だった。中西太、豊田泰光、仰木彬選手らとともに、その偉業達成の中心にいたのが稲尾和久投手で、西武がその背番号「24」を球団初の永久欠番にする。

▽西武が稲尾デーを企画

ここ数年の西武は「われわれのルーツは西鉄」とばかりに西鉄を意識したイベント展開をやっていて、今夏には選手全員が「24」番のユニホームを着て試合をする「稲尾デー」の計画もあるそうだ。ただ、昭和30年代の西鉄は伝説化した球団であり、西武とは違うと思うファンもいるだろう。西鉄のイメージを残していた東尾修投手や大田卓司選手も引退して西武にはもういないし、なにより「黒い霧事件」という八百長事件に深くかかわった西鉄との関係を消し去ったのが西武だったことを考えれば、それなりに感慨深いものがある。

▽7年目で200勝達成

5年前に70歳で亡くなった稲尾氏は記憶にも記録にも残る大投手だった。通算成績は276勝137敗。大分県の高校から西鉄に入りいきなり21勝。6年目にはプロ野球記録の年間42勝を挙げ、7年目で200勝に達している。1シーズンで投球回数が400イニングを超えたことが2度ある「鉄腕投手」だった。私が知っているもう一人の鉄腕投手は元阪急(現オリックス)の故野口二郎投手で、1942年に投球回数527回3分の1という、今では信じられない数字を残した。さらに驚くのは投げない日は野手で出場していたことだ。阪急のコーチ時代の野口氏から話を聞いたことがあったが、「3連投目が一番肩の調子がよかった」と言ってのけたものだ。隔世の感ありである。

稲尾氏のマウンドはプロ野球記者時代には見ていないが、小学生のころ大阪・ナンバの大阪球場でよく見た。当時はスライダーとはいわなかったと思うが、右打者の外角に小さく曲がる球と内角シュートに、わが南海ホークス(現ソフトバンク)はきりきり舞いさせられた。超満員のスタンドとともによく覚えている。

「神様、仏様、稲尾様」と崇められたのは昭和33年の日本シリーズだった。西鉄は3連敗の後、4連勝して3連覇を達成したが、この4勝はすべて稲尾氏が挙げたもので、三原脩監督が「神様、仏様、稲尾様」と口にして一躍流行語となった。

▽個性豊かなパは面白かった

稲尾氏といえば思い出すのが南海の故杉浦忠投手である。立教大で長嶋茂雄氏と投打の中心だった杉浦氏はサイドハンドからの快速球と大きなカーブが特長で、一流打者の西鉄・豊田がそのカーブに大きくのけぞって見逃すと「ストライク」のコール、という映像が目に焼き付いている。杉浦氏も稲尾氏に続けとばかりに、翌昭和34年の巨人との日本シリーズで4連投4連勝の離れ業をやってのけている。稲尾氏が緻密な制球力を誇ったのに対し、大まかな性格の杉浦氏は「ストライクゾーンを大きく4つに分けて、そのあたりに投げていただけ」という対照的なもので、それで通用する球威があった。東映(現日本ハム)には張本勲氏など個性的な選手が多くおり、あのころのパ・リーグは実に面白かった。

▽監督の役割

稲尾氏はロッテの監督時代にはその懐の深さを発揮して、落合博満氏ら選手のよき理解者だった。共同通信のプロ野球担当記者は毎年、ゲストを招いて勉強会をやった。第1号は王貞治氏で、広岡達朗氏、「プロ野球ニュース」の佐々木信也氏ら多くの野球関係者が応じてくれた。もちろんノーギャラで。稲尾氏もそんな一人だった。

長嶋氏との対戦の裏話を紹介する。「長嶋さんにはよく打たれた。打席でどんな球を待っているか、いろいろ探ったがまったく読めない。あるとき気が付いた。『あの人は何も考えていないんだ』と。それから自分も考えるのを止めたら抑えられるようになった」。一番印象に残った話は「いかに選手の特長を引き出してやるかが監督の役割」であった。

プロ野球が開幕して1カ月が過ぎた。高い評価を受けていた巨人と西武がともに苦戦を強いられている。セ、パとも混戦を予感させるが、ペナントレースは長い。苦しいときこそ、監督の真価が問われる。稲尾氏ではないが、「監督がいかに選手を信じるか」である。監督で負ける試合は数多くあるが、監督で勝てる試合は年にいくつもない。要は「選手が働いてなんぼ」なのである。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。

ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸男」(共著)等を執筆