いまの若い人たちにすれば、なんのことはないのだろうが、ある一定の年齢を超えた人たちにすれば大きなアレルギーがある。それが韓国戦だ。日本がワールドカップ初出場を決めた1998年フランス大会。それ以前に、最もワールドカップ本大会に近づいたのが86年メキシコ大会を目指したチームだった。

▽計り知れない「1点」の実力差

森孝慈監督に率いられたチームは、キャプテンの加藤久、木村和司を中心に東アジアのブロックを次々と勝ち抜き、決勝に進出。韓国との決戦に臨んだ。そして85年10月26日。それはJリーグ以前のサッカーファンにとっては特別な日として記憶される。

東京・国立競技場で行われた日韓戦。木村和司が伝説のフリーキックを決めた一戦だ。しかし、スコアは1-2。11月3日のソウルでの第2戦も0―1の敗戦を喫した。

確かに2試合ともに最少失点差での敗戦ではあったが、当時はその1点のなかに日本と韓国の間にある計り知れない実力差を感じたものだ。そして、この敗戦を機に森監督は、先頭に立って日本サッカーのプロ化を訴え、それが後のJリーグ発足につながった。

▽37年ぶりの3点差

札幌で行われた韓国戦。3-0の勝利は、昔を知る者にすればあまりにも痛快すぎる結果だった。74年9月28日(4―1)以来、37年ぶり2度目の3点差での勝利。ホームで勝ったのは98年3月1日以来というのには「そんなにも勝っていなかったか」と少し驚いたが、それにしても見事なゲームだった。

昨年のワールドカップ南アフリカ大会でともにベスト16に進出。日韓戦はいまやアジア最高のカードとなった。今回の試合の勝敗を分けたポイントは、自分なりに解釈をすれば、前半35分の先制点を生んだ李忠成のヒールキックだった。

確かに2得点を挙げた香川真司、1ゴールの本田圭佑の決定力は素晴らしかったが、このプレーがなければその後の展開は変わっていたかもしれない。

▽相手を幻惑した遊び心

右サイドの遠藤保仁からのパスを受ける直前に李は、香川の走り込みを確認していた。そして韓国DFの意表をつくヒールキックでのラストパス。高いレベルになればなるほど、通常のプレーではこじ開けることの難しいゴール前で、李の遊び心は、相手の目を幻惑するという意味で非常に効果があった。

在日韓国人4世として生まれ、2007年に日本国籍を取得。2つの母国を持つ李にとって、この日韓戦は特別な思いがあっただろう。ストライカーとしてゴールという結果がなかったことに多少の不満はあったにせよ、内容に関しては本人も「本当に楽しかった」という一戦は、日本代表にとっての新しいセンターフォワード像の出現を予感させた。

▽代表5試合目で繰り出した“ビックリ"

これまでの日本代表のストライカーは、良い意味で基本に忠実な選手が多かった。だから、大ハズレもないが、ビックリさせることも少ない。しかし、拮抗した試合の中では、相手をビックリさせなければゴールは生まれにくいのだ。

李が時折繰り出すアクロバチックなヒールキック。それは柏時代に共にプレーしたフランサの影響を多分に受けているのだろう。Jリーグでも突出した存在であった元ブラジル代表のボールの魔術師は、こと相手をビックリさせることに対しては天下一品だった。

味方から出された浮き球のパスを、ジャンプして軸足の裏を通すダイレクトのヒールキックなどというプレーを何気なくやっていた。そして、それがゴールに結びつくのだ。

アジアカップ決勝の、美しすぎるボレーシュートだけが記憶に焼き付いていた李だが、少なくともこれまでは日本代表のなかでプレーが空回りしている感が

あった。しかし、代表5試合目の彼のとっての最大の“ダービー"である日韓戦で、周囲は彼の“ビックリ"の繰り出し所を理解してきた感がある。

▽森さん、松田さんに捧げる「新たな発見」

この日、初代表で2ゴールをアシストした清武弘嗣、さらには日本代表での居所を探し出した香川も含め、攻撃陣のタレントは確実に南アフリカでのチームを上回ってきている。その新しい発見という意味で今回の日韓戦は3―0のスコア以上の価値があったといえる。

日本にとっての特別な一戦での痛快な勝利。このことを一番喜んでいるのは、7月に逝去された森孝慈さん、そしてこの4日に亡くなられた愛すべき永遠のサッカー小僧、松田直樹さんなのではないのだろうか。

岩崎 龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル

サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。5大会連続でワールドカップの取材を行っている。