西武や巨人など29年間で224勝をマークした工藤公康が、11月にも米国野球のテストを受けるという。昨年、古巣の西武で戦力外通告を受けたが、引退しなかった。

日本がダメなら米国で。48歳にして現役にこだわる姿を見ていると、「何歳までプロとして通用するか」と自らを試しているような気がする。それが、野球人・工藤の生き様なのだろう。

▽若年化と高齢化のスポーツ界

先日、42歳で自らの命を絶った伊良部秀輝さんもロッテや大リーグのヤンキース、阪神などでプレーした後も、つい最近まで米国独立リーグや日本の独立リーグで投げた。

野球への思いは断ち切れなかったようだ。日本プロ球界でも40歳前後の選手は珍しくなくなったし、上海で開催された世界水泳を見ても、20代半ばのトップスイマーはざらで、かつてのような10代全盛ではない。

スポーツ界のトップ級は若年化する一方で高齢化してきた。独学で肉体改造に取り組み、極限まで体を鍛えてきた工藤の挑戦は、だから面白い。

▽童顔と、恐れを知らない言動

西武が社会人野球の熊谷組に入社すると公表していた愛知・愛工大名電高の左腕、工藤を1981年秋のドラフト会議で6位に強行指名し、獲得する。

当時の西武は球団を持って3年目。松沼博久、雅之兄弟、秋山幸二(現ソフトバンク監督)獲得など、世間をあっと言わせる補強で優勝を争える球団に成長、他球団を戦々恐々とさせたものだった。

工藤獲得をめぐり正月を挟んで大騒ぎになったが、最後は熊谷組が手を引き決着。1月12日、親の同席もなく1人で入団発表に臨んだ工藤は父親が行った

“二重契約"を否定せず「騒動の最中に悩むといったことは一度もなかった」と平然と言ってのけた。

度胸満点というか、恐れを知らない言動と、その童顔との落差に取材陣は戸惑うばかりだった。

▽活躍の原点、実は米国

甲子園大会のノーヒッター、工藤は1年目から1軍。厳しさで定評の広岡達朗監督からも「坊や」と可愛がられた。そんな20代の工藤を2度のピンチが襲う。

まず、入団3年目に持ち前の大きなカーブが曲がらなくなった。スライダーをおぼえたことが原因だった。球団は7月に提携先の米マイナーリーグ球団に送り込んだ。

球団の狙い通り、工藤は1人で悩みカーブを取り戻し、翌年は8勝を挙げた。技術面ばかりでなく、子持ちもいるマイナー選手たちのハングリー精神を目の当たりにして、プロ意識に目覚めた。工藤にとって米国は“原点"でもある。

▽2度目の転機は結婚

2度目は、酒をおぼえ、半端でない痛飲を繰り返して肝臓を痛めた時だ。この時期に出会ったのが雅子夫人。結婚を機に野球人生は一変する。

医学書などを読みあさり、体の構造や機能を勉強し、実践できたのも、しっかり者の夫人のおかげだろう。子どもは5人。工藤は野球と家庭に全力投球している。そういえば先日、長女で18歳の遙加さんがゴルフのプロテストに合格した。

▽チャンスの国で何かが起きる?

さて、工藤の挑戦はどうだろうか。もういいじゃないかという声、頑張れという声の両方だろう。厳しい結果に終わるかもしれないが、米国はチャンスを与える国でもある。

世界水泳で思い出したが、3年前の全米五輪水泳代表選考会でダラ・トーマス選手が41歳で女子競泳の最年長代表(北京五輪本番は50m自由形で銀メダル)となり、その表彰式で子どもを抱きかかえてプールサイドを歩くトーマス選手に大歓声が巻き起こったものだ。そんな国だから、何が起こるか分からない。

田坂貢二[たさか・こうじ]のプロフィル

1945年広島県生まれ。共同通信社では東京、大阪を中心に長年プロ野球を取材。編集委員、広島支局長を務める。現在は大学野球を取材。ノンフィクション「球界地図を変えた男 根本陸夫」(共著)等を執筆。